
厳しく貧しい時代、我が身をけずって人のために生きた女性 瓜生岩子

女性初の銅像は瓜生岩子
日本人の女性で初めて銅像になった人物をご存知でしょうか?
ここでは和光会の祖にあたり福島の喜多方生まれで「日本のナイチンゲール」と呼ばれる人物のひとり、瓜生岩子についてご紹介します。
- 生誕 1829年3月19日
- 陸奥国耶麻郡熱塩村(現:福島県喜多方市)
- 死没 1897年4月19日(68歳没)
- 墓地 示現寺
- 別名 瓜生岩子(通称)
- 職業 社会事業家
- 配偶者 佐瀬茂助
- 栄誉 藍綬褒章(明治29年)
生涯
少女時代
父の急死、そして火事
瓜生岩子は、江戸時代の文政12年(1829年)に生まれました。岩子の父の小田付で油屋を営んでいた岩子は恵まれた家庭ですくすくと育ちました。しかし9歳の時、次々と不幸が起こります。父が肺炎で急死、そのあとすぐ火事で家が全焼。
岩子は弟と一緒に母の実家である熱塩村の温泉宿・山形屋に引き取られて暮らすことになりました。山形屋の近くには示現寺というお寺があり、境内で遊んだりお坊さんに読み書きを習ったりして過ごしました。14才になって、医者である会津若松の叔父の家に、一人で行儀見習いに出ました。その頃の会津地方は厳しい年貢の取り立てや飢饉で人々が苦しんでいました。ここで診療の手伝いをしながら貧しさや病気で苦しむ人の姿を見たことが、岩子が将来行う活動のきっかけになったと言われています。
結婚
愛する人達との別れ
岩子は17才で結婚し夫婦で呉服屋を始めました。子どもも産まれ幸せに暮らしていましたが、また不幸がおそいます。
夫が病気で倒れ、岩子が一人で看護、商売、困窮、家事をこなしていましたが、医者の叔父、夫、岩子の母と次々に愛する人達が亡くなってしまいました。岩子は悲しみに打ちひしがれ生きる気力もなくなりました。
店を閉じ、4人の子どもを奉公先などへ預け、生まれ故郷へ戻ってきました。そこで小さい頃通った示現寺のお坊さんに諭されるのです。
「世の中にはお前以上に不幸な人が大勢いる。これからは困っている人の世話をして生きなさい」と。それから岩子は、困り事の相談や捨て子の面倒を見て毎日を送るようになりました。
活動の始まり
敵味方の区別なく困っている人を助けた
戊辰戦争が始まりました。会津にも徴兵が求め入り、町は焼け野原、けが人があふれていました。
岩子はいてもたってもいられず戦いの中心地・会津若松へ向かい、空き家を収容所代わりにし、て敵味方関係なく傷の手当てをしました。クリミア戦争でのナイチンゲールと同じ行いです。
これは敵軍の大将である板垣退助の心をも感動させられたと言われています。
会津が負けて戦争は終わりました。村々に預けられたむさいの子ども達の悪さか目に余るようになりました。岩子はこの子ども達を集めて教育をしてやりたいと思いました。そして何度も何度も役所に通って許可をもらい、自分の家財道具を売ったお金を喜多方に「小田付幼学校」を建てました。
社会福祉の日々
岩子の名声は日本中へ
岩子は43歳の時、「救養会所」という東京の福祉施設でおよそ1年間見習いとして働きながら、福祉施設の運営方法を学びました。その後苦労多き方に戻り、小田切学校の場所を長借等に移し、女の人にはり仕事を教える裁縫教授所を作りました。
岩子の熱心な活動は、国や町の有力者にも知れ渡りました。当時の福島知事が福島市で活動をしないかと岩子にすすめ、岩子は福島市でも困っている人のために働き始めました。63歳の時には、明治時代の有名な実業家・渋沢栄一から岩子自身が院長をしてる東京養育院での世話役を頼まれ半年ほど勤めました。同じ頃、岩子は女性では初めて国会に「婦人参政権の制」を設けて欲しいという請願書を出しました。しかし残念ながら採用はされませんでした。
晩年
一生涯を人のために
その後も岩子は活動を続けます。会津若松、会津坂下などに育児会、喜多方には産婆研究所を作り、各地で講習会も開きました。この講習会には、野口英世の母シカも参加し産婆の免許を取ったと言われています。会津若松にはお金がなくて医者に行けない人のため私立病院も建てました。
明治27年日清戦争が始まりました。包帯の切りくずで布を織って兵士の家族に配ったり、戦傷病院に水飴を贈ったり岩子の働きは休むことなく続きました。
しかし岩子も69才、働きづめがたたって病気になりました。病床には皇后様からもお見舞いが届いたそうです。そしてとうとう岩子は亡くなりました。
人生のすべてを人のために捧げた岩子。
老いの身の ながからざりし 命をも 助けたまへる 慈悲の深さよ
※死去の二日前に読まれたという和歌
各地にある岩子像
瓜生岩子像は全国に7箇所
瓜生岩子はそのすぐれた行いをたたえられ、全国に7つの銅像が建立されています。
喜多方市熱塩加納町 示現寺にある銅像

大正15年に建立(雨宮次郎 作)されましたが、戦争で供出され、昭和30年に再建(佐藤恒三 作)されました。
喜多方市北町 佐牟乃神社にある胸像

昭和31年に建立(佐藤恒三 作)されました。
喜多方市瓜生岩子記念館にある胸像

平成5年に喜多方市瓜生岩子刀自顕彰会によって建立(三坂耿一郎 作)されました。
福島市 あすなろ保育園にある銅像
福島市 あすなろ保育園にある銅像

平成4年に建立(太田良平 作)されました。
福島市 長楽寺にある銅像

大正14年に建立(朝倉文雄 作)されましたが、戦争で供出され、昭和30年に再建(佐藤恒三 作)されました。
東京浅草 浅草寺にある銅像

明治34年に渋沢栄一らによって建立(大熊氏広 作)されました。
幸運にも戦争の被災をまぬがれ現在に至っています。
※本ページの瓜生岩子像は福島県喜多方市ホームページより引用しております。